草創期
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昭和22年 |
房総油脂工業株式会社を創立、本社ならびに工場を千葉県船橋市海神町3丁目211に設置する。 |
■日本国憲法が施行され、全国の都市で児童300万人に対して学校給食始まる(47年)。 |
昭和29年 |
本社および東京事務所を中央区日本橋兜町3丁目28に移転する。 |
米油のエキスパート企業を目指す
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昭和31年 |
食用油を"ボーソーこめあぶら"の商標で(株)明治屋と特約、各デパート、有名食料品店で発売する。 |
■合成洗剤が登場し始め、三種の神器が主婦のあこがれとされる。 |
昭和32年 |
ビルマに、日本最初の米糠製油、精製、石鹸のプラント輸出および技術指導をする。 |
■南極に昭和基地建設。 |
昭和34年 |
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■皇太子様ご結婚、ミッチーブームに沸く。 |
昭和35年 |
長岡油糧株式会社(新潟県長岡市)に出資、経営参画する。 |
■日米安保条約延長への反対闘争強まる。 ■ソ連、人間衛星第1号打ち上げ。 |
昭和36年 |
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昭和38年 |
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昭和38年 |
東海こめ油株式会社(静岡県掛川市)を新設、経営に参画する。 |
■吉展ちゃん誘拐事件、佐山事件、草加次郎爆弾事件。 |
昭和39年 |
新製品「サラダエース」〈こめサラダ油〉を発表する。 |
変革期を迎えて
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昭和41年 |
本社を中央区日本橋本町1丁目1共同ビルに移転し、本社事務所を船橋工場内に併設する。 |
■人口一億人突破。 |
昭和44年 |
クミアイ油脂株式会社(神奈川県平塚市)を新設、経営に参画する。
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■米アポロ11号月面着陸。 |
昭和46年 |
ムサシ油脂株式会社(埼玉県日高町)を新設、経営に参画する。 |
■沖縄返還調印式。 |
昭和51年 |
新製品「ボーソー粉せっけん75」を発売する。 |
■「ロッキード事件」発覚。 |
昭和52年 |
南日本コメ油株式会社(鹿児島県鹿児島市)を新設、経営に参画する。 |
■人口1億1千万人突破。 |
昭和55年 |
生協台所用粉石けんを発売する。ボーソー台所用粉石けんを発売する。 |
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昭和56年(1981年) |
横浜市戸塚区に横浜倉庫を新設、合理化を行う。 |
■中国残留日本人孤児初来日。 |
昭和58年 |
高級化粧品シリーズとして米ぬか由来原料を配合した新製品「アウターオリーゼ」を発売する。 |
■ソ連機、大韓航空機撃墜。 |
多角化・安定の時代
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昭和60年 |
調合コメ油ソフトマーガリンを新発売。 |
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昭和61年 |
コーン油につづいて、なたね油の製油・精製を本格的に開始する。 |
■青函トンネル開通。 |
昭和61年 |
タイ国に現地資本と合併で、米油の生産を目的としたSNBアグリプロダクツ社を設立する。 |
■男女雇用機会均等法成立。 |
昭和62年 |
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■国鉄民営化。 |
昭和63年 |
取締役社長勝本昭二は相談役に就任、取締役会長大山田晋が取締役社長を兼任。 |
■バブル景気最盛期。 |
平成元年 |
取締役副社長松本宇市が取締役社長に就任する。 |
■昭和天皇崩御、「平成」へ。 |
平成2年 |
A-1ソフトマーガリンを新発売。 |
■東西ドイツ統一。 |
平成2年 |
会長大山田晋は、米油産業に対する貢献者として勲4等に叙し、瑞宝章を授与される。
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信頼の企業へ
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平成4年 |
ボーソーいきいき改善活動(BKK)のキックオフ |
■大学入試が「センター試験」に。 |
平成6年 |
めし炊き名人「ライスマン」新発売
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平成11年 |
本社および東京事務所を東京都中央区日本橋室町2丁目4番2号に移転する。 |
■石原東京都知事誕生。 |
平成12年 |
船橋工場がISO9001の登録を受ける。 |
■「介護保険」「年金制度改革」スタート。 |
平成13年 |
取締役社長松本宇市は相談役に就任、専務取締役垂水龍介が取締役社長に就任。 |
■アメリカ同時多発テロ事件勃発。 |
平成17年 |
資本金135,130万円に増資。 |
■愛知万博開催。 |
平成18年 |
本社および東京事務所を東京都中央区日本橋本石町4丁目5番12号に移転する。 |
■皇室に41年ぶり男子誕生。 |
平成19年 |
米油7年ぶりにパッケージリニューアル。 |
■新潟中越沖地震発生。 |
平成19年 |
創業60周年を迎える。 |
■郵政民営化。 |
平成20年 |
環境省策定の環境活動評価プログラム「エコアクション21」に認証、登録される。 |
■後期高齢者医療制度スタート。 |
平成22年 |
「食品産業CO2削減大賞 農林水産大臣賞」を受賞する。 |
■参院選で民主党大敗、ねじれ国会に。 |
平成25年 |
取締役社長垂水龍介は相談役に就任、専務取締役片岡治男が取締役社長に就任。 |
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平成29年 |
取締役社長片岡治男は相談役に就任、常務取締役齋藤典幸が取締役社長に就任。 |
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令和元年 |
取締役社長齋藤典幸が退任、取締役川崎薫が取締役社長に就任。 |
リーダーの肖像
初代社長 直野 良平 S22.12~S36.5
大分県に生まれる。慶応義塾大学理財科病気中退。父親が経営する朝鮮京畿道開城の農園で療養するため渡韓。大正9年、29歳の折、独立し、仁川で直野精米所を始める。昭和11年より米油の生産を開始する。昭和15年には大豆搾油、米油の精製、石鹸の製造を行う共栄油脂を設立。 |
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第2代社長 真島信夫 S36.5~S39.11
第3代社長 平岡 茂 S39.11~S48.5
第4代社長 大山田晋 S48.5~S59.6
第5代社長 勝本昭二 S59.6~S63.6
第6代社長 大山田晋 S63.6~H1.6
第7代社長 松本宇市 H1.6~H13.6
第8代社長 垂水龍介 H13.6~H25.6
第9代社長 片岡治男 H25.6~H29.6
第10代社長 齋藤典幸 H29.6~R1.6
第11代社長 川崎薫 R1.6~ |
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当時の会社案内
米油がデパートや食料品店で販売され始めたのを皮切りに、天ぷら油、サラダ油などの本格的な生産・販売展開がスタートした時期。社名を「房総」からより全国展開のイメージが強い「ボーソー」に変更し、東京証券取引市場第2部への上場も果たす。昭和30年代末には「東京オリンピック」が開催され、時まさに高度経済成長期。連続脱臭機の導入などによって米油の品質も大幅に改善されると同時に合理化にも拍車がかかった。 |
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石けん運動
昭和52年に滋賀県琵琶湖で起こった赤潮大発生をきっかけとして、その原因の一つである家庭用有リン合成洗剤の使用を粉せっけんにきりかえようという運動が全国に広がった。 生活排水は海、川、湖などを汚すだけでなく、その生態系にも大きな影響を与えることが指摘されたのだ。滋賀県では、運動は「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例(びわ湖条例)」に結実し、その後神奈川県や千葉県手賀沼などにも水質保全を求める活動が広がっていった。 |
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ボーソーいきいき改善活動
円高や食生活の変化で油脂業界の競争が厳しくなっていた平成4年、仕事の仕方を見直し、設備や働く環境を改善して会社の体質を強化しようと、全社的な取り組みとして始まったのが 「いきいき改善運動」(BKK=ボーソー改善活動)である。
活動の目的は、1.他社に負けない品質と低コストの達成、 2.安全と働きがいのある職場づくり、 3.人と組織を活性化し、人材の育成をはかる、 4.食品工場としてふさわしい会社にする、の4点。これを実現すべく、以下の8項目が重点項目に設定され、具体的な目標値と達成までのプラン・スケジュールが定められた。 |
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各部一丸となっての取り組みの結果、平成7年までの3年間で生産設備の故障の大幅な低減、生産性のアップなど、ほぼ当初の目標をクリアする成果が得られた。 |